■バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?
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バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか? 双風舎 >>当商品の最安値チェック 当商品の発売日: 2006-06-26 |
カスタマーレビュー:
購入者の平均評価:
| ジェンダーフリーに基づいたジェンダーチェック 評価: |
| この本は決定的に欠如した視点がある。ジェンダーチェックだ。ジェンダーチェックはジェンダーフリーに基づいている。その根拠は『「ジェンダー」の危機を超える!』(青弓社)にもあるし、秋田市などの複数のサイトにもある。ジェンダーチェックは男らしさ・女らしさを否定するものも含まれる。ジェンダーフリーに基づいたジェンダーチェックが男らしさ・女らしさを否定している限りは、ジェンダーフリーも男らしさ・女らしさを否定している。「ジェンダーフリーは男らしさ・女らしさを否定しない」はジェンダーチェックを考えるとウソである。 ジェンダーチェックはジェンダーフリーに基づいた問題点の他、「はい/いいえ」の二択に単純化して答えさせるという多様性の尊重の観点からも問題がある。 このジェンダーチェックの問題点をバックラッシュと合わせて論じることができるフェミニストが全くいない。『バックラッシュ!』には驚くことに、ジェンダーチェックの問題点の欠片もない。 保守派も批判をする際に「男女同室着替え」などのジェンダーフリーに基づいているかどうか分からないことで批判し、フェミニスト側も「ジェンダーフリーは男らしさ・女らしさを否定しない」の一点張り。どちらの側も言ってることが滅茶苦茶だ。『バックラッシュ!』を読んでも、男らしさ・女らしさ言説の問題点は分からないので、それを期待して買うのは控えたほうがいいです。詳しくは“ジェンダーフリーに基づいたジェンダーチェック”で検索してください。 昨今のフェミニストたちのバックラッシュ分析の稚拙さには呆れるばかりだ。まえがきの問題点はフェミニスト側にも当てはまる。宝島社『男女平等バカ』で始める企画ではなく、もっと真剣にジェンダーフリーとバックラッシュ言説に向き合ってはいかが?真剣にその言説分析をしていた山口智美がもし執筆陣にいなかったら、この本って一体?という内容だった。 |
| 「読める人」は読まないと。「世間」は読みはしないんだからさ。 評価: |
| 「推進側」も「叩く側」も「ジェンフリ」の言葉だけが一人歩きをして、「混乱」を起してきたのは「事実」で、いかにも「言葉に軽い」、「美しい国」の「歴史」をこの問題も見事に踏襲してきたことは周知のところ。いわゆる「売春」を「援交」という、この国の「言葉の歴史」ね。 で、本書で「その辺」を整理出来るかといえば、「当然」できる布陣になっている。 しかし、「歯切れ」は学者特有の「悪さ」があり、「叩く側のトンデモ科学陣」の「歯切れのよさ」には、残念ながら及んでいなそう。 現在の科学に限らず「トンデモ」に果たして「理性と知性」はどれだけ抗うことが可能か。 「トンデモ」は実に楽しい「ルサンチマン」である。本書で宮台真司はそれを「田吾作の祭り」と呼んだ。宮台先生は「想定内の事象」と理解しているのだが、そこに「救い」はあるのか。 私も「田吾作」の一人である。「織り込みずみ」なんて言葉より「救って」もらいたい気がする。 どうやら、「美しい国」に本書は「そこまで」は踏み込めなかったようだ。なぜなら、本書は「田吾作達」が「積極的に」読もうと思うシロモノではないからだ。 だが、読める人は読もうではないか。自身が「田吾作」であろうとなかろうと。本書は確かに現在は「勝てない本」である。何せ、「美しい国の首相」が「ジェンフリ叩きの一番手」だったのだから。つまり、「美しい国」には「ジェンフリ」はいらないって、最高権力者が言っているのだ。 では、ここで「言葉」に立ち返ってみよう。上野千鶴子は「ジェンフリ」なんて言葉は「元々」いらない、「男女平等」でいいと言っている。そうなると、「美しい国」には「男女平等」はいらないということになる。果たして、「本当かい、それは?」と思う人には、本書はけっして「軽く」ない筈だ。 「ガタガタうるせぇ」と思う人達も、本書の巻頭の「宮台真司の稿」と巻末の「上野千鶴子の稿」だけでも読んでみたらいかがなものか。そこには、「溜飲を下げるルサンチマン」はなくて、「残念」だが、「見のがせない示唆」はある。そこはやはり「必読」としたい。 |
| 叩き台としてよい本。ただ、誤植だらけ。 評価: |
| 議論の叩き台としてはいいと思う。 論者も多種多様で好感。 問題は編集サイド。 ある程度は仕方ないにしても、限界を超えた誤植の数々。 帯、目次、図版、本文、どれを取っても誤植がある。 これで書き手や読者に対して恥ずかしいと思わなかったら、それはもう編集をやる資格はない。 『限界の思考』も誤植だらけの本だった。 猛省を促したい。 |
| 性差を否定し解消せんとするジェンダーフリー 評価: |
| 「まえがき」を読んでこりゃダメだと思った。「バックラッシュ」について、「内容もジェンダーフリー(社会的性差の押し付けから自由になること)とジェンダーレス(社会的性差自体をなくすこと)を混同していたり」とあるが、真っ赤な嘘、でたらめである。 社会的性差は緩やかな性別規範であり、規範である以上「押し付け」としての性格を免れないが、それは、社会秩序を成り立たせるために必要な「マナー」「ルール」「慣習」「法律」とて同じことである。電車内で騒ぐ者に「マナーを守れよ」と注意したら、「マナー? そんなの社会が勝手に決めた押し付けじゃん」と反発する輩がいるかもしれない。しかしその理屈をなるほどと受け取る人はいないだろう。ジェンダーフリーは、「マナーを守れは押し付けだから、そこから自由になろう(守る必要はない)」と言っているのと同じである。 マナー、ルール、慣習、法律などから自由になれば、それらは意味を失い、存在価値は消える。ジェンダーもその拘束性から自由になれば、ジェンダーとしての意味はなくなる。これがジェンダーレスであり、ジェンダーフリーがジェンダーレスに向かうのは必然的である。 ジェンダーフリー(=男女共同参画)の怖さは、人々の無数の営みの中で自然発生的に生まれ、人間関係や社会秩序を成り立たせるのに役立ってきた規範を、自由の阻害要因として、公権力の強制力で根こそぎにしてしまうところにある。絶え間ない「意識改革」の強制により(ジェンダー・チェックを想起せよ!)、個人の内面や家庭に干渉する手法も全体主義的だ。参画社会基本法は必ず廃絶すべきである。 なお、「まえがき」によると、上野千鶴子氏はジェンダーフリーから距離を取ってきたそうだが、これもおかしい。上野氏はジェンダーフリーの「語」を余り使わなかっただけだろう。自他共に認めるジェンダーフリー論者の大沢真理氏を「フェミニズムの政治の制度化をその現場で担っている第一線の指揮官」と礼賛し、大沢氏ともども「ジェンダーの解消をめざす」と公言している上野氏が、ジェンダーフリーの語が指し示す「概念」を支持してきたことは疑いを入れない。 |
| 結構読みやすい 評価: |
| 一ページ2段という読み応えのある一冊。 視点がまとまっている記事があるし (はい、かなりのアカデミック本って論考のまとめが薄いと感じる がこれはしっかりしてるのがあります) 元々ジェンダーフリーという言葉を 使いだした当人のインタビューがある というのがなかなか。 日本のジェンダー論の文化や歴史を見るという面からみて それをチェックするだけでも重宝できる 一冊。 |
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